恋愛を科学する

現役東大生が昨今の恋愛研究や、自身の恋愛研究を紹介します。既存のメディアの均一的な情報に皆さんの恋愛が左右されることがないよう、実際の恋愛のありようや、行われている恋愛研究など最新の知見を通して知ってもらえたらなと思います。行動経済学・メディア学・社会心理学なら少しは語れる。かも。

私が恋愛を研究するまで

こんにちは。わなみあやです。バイト行って,サークル行ってっていう普通の大学生みたいな夏休み期間を過ごしています。時間があるうちに,いろいろやっておきたいことは,たーくさんあるんですけどね…

夏休みも後半に入ると,インターンだのなんだのと,社会に適合しなきゃいけないイベントばっかで,どうにもこうにも面倒な限りですね。

 

さて,今回はなぜ恋愛研究を始めたのか,つづっていこうと思います。

結婚したいという意思をもっているのにできない人々の存在や,少子化や晩婚化を問題意識として捉え,その理由を明らかにするために,青年期の恋愛行動の変化を研究しているというのが建前ですが,実際のところどうなの?というのをよく聞かれます。

実際のはじまりは,卒業した塾で,講演を頼まれた時に,慶應の人が慶應女子を落とそうと,一生懸命アプローチしていたのをみて,びっくりしたのと同時に結局lineすら交換できなかったのをみて,こんなに頑張っているのに…と思ったことが始まりです。そこで,「恋愛」という事象に対しての興味を持ちだしたのです。

はじめてみると、私の「恋愛観」というのは、まったく普遍的に社会で共有されているものとは異なっていることを知り、さらに気になりました。

さいわいなことに、東京大学では、1年生のときに初年次ゼミナールという授業で自らの研究を発信することができます。ようは、「初めてのおつかい 論文バージョン」みたいな感じの授業です。私のことを指導してくれた教官は、非常に優しくて博識な方でした。いつか私の研究成果を再びみることができるのを、楽しみにしていてくれていることでしょう。その授業で、恋愛研究を右も左もわからないなりにまとめ、なんとか発表にこぎつけ、つたないつたない論文を書くに至りました。その論文はなぜ恋愛研究が必要かなど、昨今の恋愛事情については非常にうまくまとめることができているのですが、文科系の論証を十分しらないままだったので、何が言いたいのか明らかにならないまま文字数を超過してしまったのが大変残念です。

ただ、その研究を通し、これまでの恋愛研究の潮流や、これからの課題などを知ることができました。その1年生の時の論文は、学術分野ってほどのものはなかったような気がしますが、社会心理学の研究や論文を読んでいた記憶があります。

ゼミが終わっても、研究はなにかしらの形で続けていきたいとは考えていたのですが、それが次にかなうのは2年になってからでした。

2年生になると、進学選択が近づいてきたので、どのような学問を学びたいのかを考える過程で、自分は改めて経済学をもっと詳しく学びたいと考えていました。そこで、自分が駒場でやってきたこと(恋愛研究)と自分の学びたい学問(経済)を融合して研究をしていこうと考えるようになりました。まあ、最後まで社会心理と迷ったのですが…

進学選択の時期に、自分は経済に進むけど恋愛を研究することは可能だろうと考えていました。Becker(1974)や、マリナ・アドシェイドの『セックスと恋愛の経済学』という書籍に出会うのはもう少し後ですが、その選択は間違っていませんでした。恋愛研究を経済学の観点から行ったものは未だ少ないですが、その着眼点や問題設定次第で、大きく発展する可能性のある概念だと、2年生の私は考えました。

 

その考えは未だに正しいと私は考えています。自分の志は主張し続ければ道が開け、卒論を恋愛の経済学で書くことができそうです。

経済学のどの分野で論証をするのかは、いろいろ熟考していく必要がありますが、このようにささいなきっかけではじめた研究は、そろそろ結実の時を迎えそうです。ゼミの教授に「その研究やめれば?」と言われたこともありますが、せっかく1年生からとりくんでいることを、もっと一生懸命取り組めたらと思います。

 

今後は、改めて言葉の定義と論証を明確にしていき、経済学の教養をもっと身に着けることを積極的に頑張っていきたいです。

私が恋愛研究を発信しようとするまで①

こんにちは。わなみあやです。夏もぼちぼち後半戦とはなってまいりましたが,今年は思い出が少しできているような気がします。いろいろ周りと比較してしまいがちな大学三年生ですが,少しでも悔いなく過ごせたらなあと思っています。いうて,昨日ようやくセメスター終わりのレポート課題を出し切ったんですけど。

まあしかもそれに加えて,恋愛の方はまったくできていないんですけどね。2年生までは,毎日が恋バナで彩られていたような気もしますが,最近している会話と言えば過去への呪詛と就活の話くらいですかね。旧友についつい恋バナするのやめたい。

 

さて,今日のテーマですが,研究も特に進んでいるわけでもなく,論文を読むモチベーションもないので,まったく書くことがないんですよね。別に最近恋愛をしているわけでもないので。で,社会に対しては同じようなことしか言っていないし,(あれですね,昨今の社会変革によって恋愛の諸様相が変わったね。すごいね。みたいな。まあ過去の記事でちょこっと触れてるし,改めて言語化したさはなくもない的なとこ。)

うーん,こまったこまった,他のブログを書いてるひとや,ライターさんみたいに面白いことを言えるわけでもなく,恋愛研究を世間一般にわかりやすく説明できるわけでもなく,かといって実際自分が恋愛をできているかと言われたらそうでもなく,案外日々を書き連ねていた方がこれ面白い説まであるんですけどね。

 

600字近く書いたけど,まあようやく書きたいものが思い浮かんだので,ぼちぼち頑張っていきます。

このブログを始める前,自らの恋愛研究を,どうにかしていろんな人に伝える機会が欲しい,自分のこれまでやってきたこと,新たになったこと,頑張っていることを発信したいなあと考えてきました。その結果がブログになるまでには,ちょっといろいろありました。

 

よくある恋愛のメディアとかで,記事でも書こうかなとか思っていたのですけど,はっきりいって単価が微妙で,一文字0.5円はちょっとしんどくない?みたいな感じでやめたんですよね。こういう風に気軽になにかを綴ることができるわけでもなく,自らの考えというよりかは「想定する読者」という幻想に向けて都合のいいことを書き連ねるだけですから。だいたい,血液型占いの記事を書けと言われても,学術的に有意差がないものに関してなんて,書けるわけないじゃないという思いが去来したり。年上男性にもてるにはみたいなこと言われても,そんな局地的なこと言われても,感覚で「頼りにしてます感をだすといいんじゃないんですか?」としか言えなくないかっていう。

 

まあ大体研究っていうのは「世の中のしくみを解明しましょうね」みたいなのが主流でして,「こうすごすと世の中暮らしやすくなりますよ」みたいにハウツー本を出版するみたいなことはないわけですよ。だいたい暮らしやすくなるにはどうしたらいいのか知っていてもそうはできないのが人間なのですから。

これは,いろいろな学問で真であるんじゃないかなあとは個人的に思いますけどね。そんなこんなで,メディアで特に枠を設けさせて恋愛研究を紹介するのもなにも実績がない中では無理だなあと思いまして,あきらめたわけでございます。

 

あ,あと某メディアにインターンとしていこうかなと思い立って,面接まで行って採用してくれるよとは言ってくださったのですが,そのオフィスが狭いしぼろいし,いわゆるベンチャーとは対極にありまして,勤労意欲が消滅したということもありました。あと,成果報酬もひどくて,基本給+インセンティブみたいな感じ名ですけど,基本給が低くてリスク高すぎやんみたいな感じになって,いよいよ働く気はなくなってしまいましたね。インターンとして,closedに囲ってもらえるというのはありがたかったんですけど,環境が…

 

他にももうちょい紆余曲折はあったのですが,それはまたの機会に…

 

うーん,アクセスを増やすために,東大の実態でも書いてみたほうがいいんじゃないかなあ?

 

デートスポットの社会学①

こんにちは。わなみあやです。そろそろアクセスに有利になるようにいろいろ対策もしていきたいところですが、なんだかんだ言葉を意識できずに使ってしまっている日々です。お盆に至るまで案外バタついてしまっていて、しかも来週からどこかのインターンいかなきゃいけないしでこのような忙しさになれずにきてしまっていて駒場での過ごし方間違えたなあみたいな感じです。

仕事や課題、研究に対してきちんと取り組むことを学んでくればよかった。

 

まあそんなことはさておいて、ぼちぼち今日もつらつらと述べていきます。

でもまあ最近本格的に「恋愛」が遠ざかっていて、紙や論文上でしか「恋愛」に触れていないので、さあ問題って感じではありますが…今更研究課題を変えるわけにもいかず、これでいいのかな、でもまあ仕方ないなと思いつつ…まあその個人のことに関しては今後詳述してきます。笑

 

題名にもある通り、デートスポットの社会学に関してですが、まずデートスポットの定義からしっかり確認していきましょう。

そうですね、デートスポットといえば恋愛関係にある、もしくはこれからそのような関係を形成する人々がおとずれるとされているところでしょうか。例えば、ディズニーランドとか?秩父とかは違いそうですね。

ある程度有名なところで、観光にせよなんにせよ、2人で思い出を共有できるというのがキーポイントですね。私もいろいろありました。

あらゆる観点から語られることが往々にしてあります。旅とか、メディアとか、諸分野で…

 

ただ悲しいかな、その思い出は年齢があがり経験が豊富になるにつれて、比較され、選択されることになってしまうのです。例えばディズニーランドは一つしかなく、そこでの思い出はいくつか形成されていくわけです。固有な場所での固有な思い出達は被るから、比較して優位なものが想起され保持されていくわけです。直近なものは思い出される可能性は高いけど、今後長々と「ディズニーといえば?」みたいに想起する機会があれば直近の思い出を思い出すわけではないのです。

それをついつい話してしまいたくなることや、同じ場所に行ってしまいたくなることがあるのが、人の心理なのでしょう。さあ、どうしたことか…

「信頼している人だから」とかいって、閾値が低くなったり、共有せんとしたくなるのでしょうか。こまったしんりですね。やだやだ。

 

割と救いようのないデートスポット問題、今後あらゆる引き出しから論じていきたい事象の一つです。

 

さあ、明日も更新頑張るぞ!!!

恋愛から遠ざかる恋愛研究者(東大の恋愛事情)

こんにちは。わなみあやです。台風一過ですが、まあとくにこれといってやることもなく、って感じです。やらなきゃいけないことはあるけど、やりたくないよねみたいな。ひまひまいってて、まわりのことが気になるわりには、自分もばたばた、そんな夏休みです。少なくともサークルでしくじって他に特にすることもないっていう2年生よりましです。

さて、今回の記事は指向を少し変えてみたいと思います。なぜなら、学術のことだけべらべら話してても、絶対つまらないでしょとか思ったからですね…笑

大学に入ってからは、ちょこちょこいろいろありましたが、本郷に来てついに何にもなくなったことを痛感します。経済学部は、意外と女子が少ないのです…そんな中では、「よりどりみどり」の逆状態に陥って、単純に人数が少ないから恋愛ができないみたいなことになっているんですよね。しんどい。

また、こんな状態だからこそ女子に対する交渉力が著しく低下するんですよね、注意をひきつけにくい的な感じになってるよってことです。うーん…

だって、インターンとか行くと女子の多さや女子の大人びている感じにびっくりしますもんね。まあこんな大学に入った時点でどうしようもないんですけど。

 

他の大学にいっていたら、どんな恋愛ができていたのでしょうか?案外、ノリが合わなくてただしんどいだけかもしれないですが。笑

こーやって、大学時代に適切な異性観をみにつけにくい大学で育っちゃった我々は、社会に出ても「東大男子は…」とかいう風にビミョーな目で語られるわけですよね。こまった…
本郷にいくと、ほんとにチャンスがないなって思いますもん。ついついカップルとかに目がいったりしている自分を認知しては、「負けてる…」って思ってしまいます。女子も女子で、違った苦労があるのでしょうが、それを理解してあげられるほど東大男子は余裕があるでしょうか?また、生存者バイアスがかかって、「もてもてでいろんな男と付き合っている東大女子がおるよ」っていうような、東大女子はもてるぞ的な言説がかなりを占めてしまい、東大女子が恋愛に関して感じてるしんどさっていうのも、着眼されにくくなっているのは、結構な問題でしょう。

 

まあさておき、自分がこじらせたのか相手(になる可能性のある人々)が大人になったのか、難しいところではありますが、なかなかもろもろ難しいです。就職するまでは、難しそうです。強く生きていきたいところですね。

若者は恋愛がしたいのか?昨今の研究、調査から読み取る若者の積極性

こんにちは。わなみあやです。夏休み、案外暇かなあと思っていたけれどビジネスコンテストやら9月の出国に向けてやらでなんだかんだで落ち着きのない日々が続いています。他大学の学生は、サークルでこの時期忙しいらしいけど、これにサークルをやる余裕なんか絶対ないなあと痛感しています。

 

さて、今回は内閣府や国立社会保障・人口問題研究所が発表しているデータをもとに、若者の恋愛事情に関して少しでもまとめられたらと思います。社会の諸変容を前にして、これまで青年期の人々は恋愛をしたいという考えを持っていることを前提として研究が進められてきた風潮が変化してきました。この社会の変容がなにか、あらゆる手掛かりを使って明らかにすることも、今後行っていきたいことの一つでもあります。(例えば、アイドルとか、SNSとか…)

この変容の結果、恋人がほしくない、恋愛をしなくてもいいという若者が増えてきたよ(いわゆる草食系男子が増えた?)という論調が、増えてきたように見受けれらます。

まず、恋愛をしようと思わない若者たちという立場、論調に立って話をしたいと思います。

2015年に内閣府がおこなった、「結婚・家族形成に関する意識調査」では、20代の未婚者で恋人がいない人のうち約6割は恋人がほしいと考えている。…これは、6割しか、でしょうか?これは2011年の同調査では、7割の人は、恋人がほしいと回答していたのに比べると、恋人を欲しいと思わない人が増加していることを示しています。

要は、年々若者は恋愛をしたくないと考えているそうですが、本当にそうなのでしょうか?こんなに日々恋愛恋愛って、いろいろメディアが騒いだり、身の回りの人が話をしていたりしているのに…

先述の調査は、既婚者、恋人がいる人を分母に含めていません。彼らは、恋人や結婚相手がほしくないと恋愛関係を形成しないわけですから、分母に「非リア」という偏りが見えるわけです。そんななか、そういう質問をしていれば、そりゃあほしくないっていう人の割合も多くなりますよね。

で、だいたい割合が増えているよねっていうのが恋愛研究の様相なんですが、オーネット(2018)では、交際相手がいないと回答した若者のうち、76.5%が恋人がほしいと回答しています。逆に、欲しくないと回答している人は9.3%です。最新の調査結果は、若者の草食化の傾向がもはや終わっているのではないのでしょうか?ということを明らかにしているような気がします。

 

以上をまとめると、若者が恋愛をしたくないという論調に向けて、発したいこととしては、
①調査方法に偏りがある調査の結果を利用してはいないか?

②そのトレンド、実はもう終わっていないか?

の2点です。

 

若者が恋愛をしない理由が、心理学的論究(アイデンティティ理論など…)、恋愛は面倒だとかいう回答が多いこと、社会の変化(大量消費社会に生きるからみたいなあれ)諸々「後付けで適当な都合のいい」理由をつけて論じている時代遅れな研究者がたーーーーーーくさんいらっしゃいます。

今後、恋愛をするようになったよねっていう論調が目立ってきたら、また「後付けで適当な都合のいい」理由をつけて研究者たちは論じるのでしょうか?この矛盾、つきつめて考えると面白いと思うんですよね。経済学からどうからめて論じてみようかな、ゼミとかで着目してみたいなあ…

 

というわけで、今回は若者の恋愛事情について論じてみましたが、意外な違いがみつかりました。今後も、この恋愛研究のメインストリームの中にはらんでしまった矛盾を考えていってみたいです。

インターネットと恋愛

こんにちは。かけないかけないといいつつ早数か月。どうすれば続くのでしょうか、なかなか難しいですね。

さて、数日前にテストが一通り終わり、どうにかこうにか余裕が出てきたと思えば、9月シフトに入れない分今バイトを頑張らなきゃいけないし、就活やらなんやらで遊ぶ暇も人もいない日々が続いています。これでいいのかと不安になってしまうくらいです。周りの人がいろいろな行動をするからこそ、自分の選択の存在が不安になってしまうんですよね。

 

今回は、インターネットと恋愛について、自分の考えを書き連ねていきます。

今や、我々の恋愛、ひいては社会はSNSなどのインターネットの存在なしでは語れないでしょう。以前よりも人々の間の距離が狭くなり、人間関係のありようなどが大きく変わりました。

「ウェブ恋愛」という考え自体は、2000年代に大きく発展してきたものでしょう。いろいろなメディア、例えばmixi,モバゲーなど…を通し、知りえるはずのない人々は関わり合いを生み出します。もともとコミュニティが自分の趣味に適合するからこそ入って、関わりあっていることも相まって、「画面上」を媒介した距離はどんどん近づいたものになるはずです。会ってもいないのに、好きになる、そんなことが可能になってきたわけです。いろいろな具体例がこれまであまたものメディアで紹介されてきたわけですが、我々が社会で構成してきた普通の恋愛の形成方法と違っていたからこそ、我々は不思議だと考えたのでしょうか。

さらに時は進み2010年代、知り合いとさらに親密な関係を形成することを補助できるようなLINE,twitterなどのメディアが発現しました。ドラマや歌詞などには、そのようなソーシャルメディアが存在することが前提として話が展開されていきます。いつから我々が、それらの存在を許容するようになったのでしょうか?つい十数年前は、対面で、電話などない状態で、恋愛ができていたのに、いつの間に2者間の関係にメディアが介在するようになったのでしょうか?

我々の疑問は、どのようにして人々がインターネット、諸メディアを媒介して恋愛を形成できるようになったのかでしょう。

今後いろいろと文献などを読んで考察していきたい事項ですね。

血液型占いは的中するのかー恋愛を社会心理学から科学するー

こんにちは。本郷キャンパスが広すぎて、休み時間の10分では移動が間に合わない日々を過ごしています。わなみあやです。

あと、空きコマ過ごす場所がなくて、どうしようかなとか思ったり、勉強が間に合わないけどやりたくないなあとか最近は思っています。月曜2限しんどい。みんな勉強するのがデフォだから、なんとかしないとおいてけぼりになってしまうんですよね。さて、どうしたものか…

 

さて、今日のテーマは「血液型占い」についてです。一度は気にした方も多いのではないのでしょうか。何型と何型の人は相性が良いなどということがよく言われていたものです。また、あるネットメディアではA型牡羊座の性格や特徴5選などといった記事が未だに掲載されています。

結論から言ってしまうと、まったく科学的根拠はありません。血液型によって、性格が決定することはありません。並びに、恋愛が血液型に影響を受けることはありません。このことは、あまりにも多くの論文が主張し続けたとおりです。

では、なぜここまで信じられるようになってしまったのか。また、なぜ根拠がないことがあたかも事実として語られるのか。この疑問を社会心理学を使って解決したいと思います。

①「占いの予言が的中するとき」

村上幸史(2005)「占いの予言が「的中する」とき」では、占いの予言が的中と受け取られる過程を検討している。この論文は、運勢の占いに関して、特質を考察している。占いの記述のされ方にはパターンがあり、1つの星座の1回分の占いの文章では、「断定的運勢が先に述べられ、その根拠にアドバイス的に運勢を提示する内容(可変的運勢の記述)で締めくくられると述べている。そのことから、「占いに述べられていないことは、後で想起されない」ということが理解できる。

②自分の都合の良いものしか見ない「確証バイアス」「見たものすべて効果」

自分が読んで、自分にあてはまるものや、都合のいいものしか覚えていないというのが往々にあるでしょう。そのようなことは、確証バイアスとして語られます。

③A型は几帳面であるように”振る舞う社会”ー自己予言の成就とプライミング効果

数年前に、「○型自分の説明書」というのが流行ったのが記憶に新しいかと思いますが、そのように社会に現れた「A型は几帳面」「B型はおおざっぱ」などの言説が人々を規定しかねないことがあるのです。

 

占いは、当たるも八掛、当たらぬも八掛とはよく言われたものです。あまり深刻に血液型占いを信じすぎることなく、都合の良いものを意識して行動するだけで、「科学的に」良い出来事を呼び寄せることができるかもしれません。